リンコ's diary

田舎の地域医療を志す薬剤師

【雑記】僕は答えを探しすぎていたのかもしれない

なかなかアイデアが出ない日々が続いた。全然思いつかない。
気付けば、とりあえずググっていた。
 
ある日ふと思った。
「僕は答えを探しすぎていたのかもしれない」と。
 
便利な世の中である。
ググれば多くのことの答えが見つかる。
いや、正確には答え”のようなもの”が見つかる。
答えが見つかれば、そこで終了である。
もし答えが見つからなければ、そこには絶望が待っている。
それ以上は先へ進めない。どうすればいいのかわからない。
実際、簡単に見つからないし、見つからないことも多い。
 
おかげで検索能力は非常に高まった。
たくさんの検索方法を覚えたし、自分で編み出した。
Google翻訳の助けもあって、検索言語に英語が追加され、検索能力は圧倒的に向上した。
検索された情報の吟味の能力も高まった。
 
気付けば何でも検索するようになっていた。
すぐに答えを求め、自分で考えなくなっていた。
そこが落とし穴だったのである。
 
最近よく人と話していて思う。
「○○ってなんだっけ?」と謎の議論が始まる。
「スマホ持ってるんだから調べればすぐに分かるんじゃないの?」と思ってしまう。
でも実際そうなのである。
でもそれはちょっと違うらしい。
 
仕事で議論するときは、エビデンスを重視して議論している。
でもそうじゃない意見が出てくることも多い。
何かモヤモヤした。
エビデンスなんてないことの方が多いし、あいまいなものなのに。
 
人と話をするときも、不明確なことはできるだけ話さないようにしていた。
あまり話さなくなったし、適当なことをいう人に不信感を抱くようになっていった。
しかし、そういった話もしないと話が広がらない。
 
僕には答えしか求めなくなった。
答えがあれば「なぜ」は必要なかった。
 
でも、「なぜ」を失ったことで、考える力がいつの間にか無くなっていた。
おそらく物事の本質というかおもしろさというか、そういったことが「なぜ」に隠れているのだろう。
 
どうして「なぜ」を考えなくなったのか。
それは面倒だったから。
難しいことも多いし、問いを続けていくと終わりが見えない。
「なぜ」を考える時間があったら、他の問いの「答え」を探したかった。
 
答えは「考えて導き出すもの」ではなく、「探し出すもの」になった。
「なぜ」を考えなくなったから、応用が利かなくなった。
全然考えなくなった。
すると、アイデア勝負の時も、そのアイデアが出なくなった。
どうせ明確な答えなんて存在しないんだから、と質問をしなくなった。できなくなった。
 
そんなことに最近悩んでいた。
そして、浅生鴨さんの「面白い! を生み出す妄想術 だから僕は、ググらない。」を読んだ。
 
 
気になった部分を紹介する。
 
この本のタイトルは『だから僕は、ググらない。』だけれども、僕はインターネット検索をしないわけじゃない。
(中略)
検索で手に入る情報よりも、もっと広がりや奥行きのある情報を簡単に手に入れる方法があるのだ。
それが妄想だ。妄想で手に入るイメージは、検索では見つけられない。
だから僕は検索の前にさんざん妄想する。そして、それが癖になっている。
 
僕たちは問題を与えられると、すぐに正解を探そうとする。
でも、現実の問題はクイズではないから、あらかじめ正解が決まっているわけじゃない。答え合わせはできないのだ。
ものを考えるというのは、どこかにある正解を見つけ出す作業ではなく、まだ答えのないこと、正解のないものを追いかける行為なのだろう。
そうは言いつつ、僕もやっぱり正解はあると思っている。
ただしその正解は、正解となるアイデアを手にしたときに初めてこれだとわかるもので、途中の段階では自分が正解に向かっているかどうかは分からない。
 
どこにも正解は落ちていないのだし、いくら探したって、どうせ見つからないのだから、不安になる必要はない。
思いつく限りの妄想をどんどん並べていればいいのだ。
そうして、何度も失敗を繰り返しながら、僕たちはようやく気づく。
問題に対して新しい質問を持っていくのと同じように、正解もまた探すものではなく、きっと自分で作るものなのだ。
そのために僕はたくさん妄想をして、アイデアの種を集めているのだと思う。
 
ともすれば僕たちは、与えられた課題、考えなければならないお題に関係のあるものばかりを集めがちだけども、実は関係のないものにこそ、妄想のためのヒントが隠されているかもしれない。
関係のないものを並べたときに見えてくるのは、それまで誰も見たことがないものだ。
だから、あえて違うものを並べるのだ。
異なる二つのものごとの境界線、境界を越えるところにこそ、新しい発見があると僕は考えている。
 
こんなふうに、しつこく「なぜ?」を繰り返すと、そのままではなかなか考えの及ばないところにまで思考を伸ばすことができる。
  
検索を始める前に、自分の頭であれこれ妄想して、アイデアの手触りを掴みたいのだ。
自分が本当は何を求めているのかがわからないうちに検索を始めるのは、よくないのではないかと僕は思っている。
ネット検索は便利で早くて、すぐにいろいろなことを知ることができる。
上手く使いこなせば、強力な武器になる。
だからこそ、僕はすぐには手を出さないようにしている。
あまりにも便利すぎるから、自分で考えることを忘れてしまいそうになるのだ。
 
自分に足りなかったのは、妄想すること、考えることだったのかもしれない。
「なぜ」を考える時間を作るために、時間に余裕をもつことの必要性も感じた。
そんな、答え”のようなもの”を見つけることができた。
 
 
 
 
 
あと、石川善樹さんの「問い続ける力」もおススメです。
 
 
答えを求める「では派」と、問いを求める「とは派」。もちろん、どちらがより優れているとかそういう話ではない。大事なのは、自分がどういう生き方をしたいのかということだ。
  
この二つの発想法は、どちらか一方がすぐれているというものではなく、目的に応じて使い分けることが重要となる。たとえば、「演繹」という発想は、イーロン・マスクが言うように「新しい地平を切り開く問い」にたどり着く。一方で「帰納」という発想は、「困難を乗り越える問い」を生み出してくれるのだ。
 

この「例外を例外として切り捨てるのでなく、そこに本質が表れているかも⁉」という姿勢は、科学だけでなく、ビジネスや社会変革など、あらゆる分野で応用可能だ。

 

あと、もう一つ。

成功の秘訣を聞いたら次のように教えてくれた。
「論文を読まないことです。下手に読んでしまうとアレもコレもやられていると、暗澹たる気持ちになります。そうではなく、まずは自分の中で問いを膨らませます。そして解きたくて辛抱たまらんという状態になったら、そこで初めて論文を見るんです。」

 ですよね。。。

すみませんすみません。